向井 周太郎(武蔵野美術大学教授)
シンポジウム「文字文化の再創造」,2001年4月8日,日仏会館ホールにて |
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[更新:2001-03-30]
1)「ヴィジュアル・ポエトリー」ないし「視覚詩」という概念は、1950年代以降、世界各地で同時発生的に試みられはじめたコンクリート・ポエトリー運動の流れから生れた。今日では、おそらく、この視覚詩という概念を拡張して、古代の宗教的テクストや各時代・各地域の図像詩などから、20世紀初頭にかけてのマラルメの「骰子一擲」やアポリネールのカリグラム、未来派、ダダ、構成派などよる前衛詩の試みを経て、現代の視覚詩にいたるという考察のアプローチも可能であろう。しかし、ここでは、1950年代以降におけるコンクリート・ポエトリーの国際運動と理論的にも連携して展開された日本の視覚詩を考察の対象としたい。その日本の推進者はASA(Association for Study of Arts)グループ(1964-77年)を主宰した新國誠一であり、したがって、考察の素材としては、新國およびASAグループとその関連の作家たちの作品をとりあげたい。
2)コンクリート・ポエトリーの詩法は、骨子を簡単に述べておくと、詩を線行から星座のような空間配置へと解放し、文字の視覚化や表意化によって「ことばの再生」を、新しいポエジーを求めたといえる。ASAの指針として、同メンバーの一人上村弘雄の協力を得て新國によって起草されたASA宣言書という綱領があるが、その中には、1955年に、はじめてコンクリート・ポエトリーという文学概念を共同提唱したスイスの詩人オイゲン・ゴムリンガーとブラジルの新詩運動の文学集団ノイガンドレス・グループのパイロット・プランをはじめ、フランスの詩人ピエール・ガルニエの空間主義やドイツの哲学者マックス・ベンゼの情報美学などの主要な考えが反映されている。ちなみに、私自身がコンクリート・ポエトリーの制作に関与してきたのは、1956年にドイツのウルム造形大学に留学し、そこで、ゴムリンガー、ベンゼならびにコンクリート・ポエトリーという概念の源泉となったコンクリート・アート(Konkrete Kunst)の推進者マックス・ビルに師事したことが契機となったといえる。1972年以降は、私もASAに参加した。
3)1950年代のコンクリート・ポエトリーも明らかにマラルメ以来の「言語そのもの」の主題化という新しい詩の精神を受け継ぎ、文字言語の空間作用、言語の図像性、多面的なイメージの喚起力を重要視する。しかし、50年代のこのポエジーの動向は、言語素材あるいは記号そのものの自律的な「関係」あるいは「構造」の提示という主知的な展開を強め、言語の物質化をいっそう推進していったといえる。たとえば、コンクリート・ポエトリーの初期の主な基本原理として次のような項目を挙げることができるだろう。素材や構造要素としての視覚性や視覚空間の価値を重視、基本単位の合成、線的でなく同時的な星座のような配列のテクスト、多焦点的な時間性、語の脱意味化による多義性の喚起、メッセージや感情表出の伝送ではなく構造の伝達、表意文字(イディオグラム)的な構想の重視、素材としての語の音素・形態素・意味素ーそれらの同時性、反主観的・反隠喩的な言語の実現、文学の超国家性、などである。ここに見られるように、コンクリート・ポエトリーは言語のシニフィアン(表現面)、ことに文字形態の視覚性を重要視するという意味では、一見タイポグラフィーやデザインとの現象的な類似性をもつ。しかし、それでいてタイポグラフィーやグラフィック・デザインや絵画ではなく、また在来の詩でもないというジャンルをこえた言語の提起にこそ、そのポエジーの詩的機能を求めたのだといえる。
4)上述のように日本のASAの運動は国際的な連携において展開された。しかし、図像的な漢字という表意文字にひらがなやカタカナという表音文字を混用するような、そしてタテ書きヨコ書きも可能な日本語を言語素材とする日本のコンクリート・ポエトリーは、西洋に由来する理論のみで把握できるのだろうか。特に、漢字を用いた日本の視覚詩には、「再表意化」や「意味の初原化」とも呼べるような現象形態が多く見られる。それらをあらためて「六書」の「象形、指事、会意、形声、転注、仮借」という漢字の構成・運用法に沿って考察してみたい。なお、日本の視覚詩の特質を、同一ないし類似のテーマや方法で展開されたアルファッベト表記圏の視覚詩と比較しながら見てみたいと思う。おそらく、文化の差異とそれをこえた普遍が見い出せるのではないだろうか。